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闇打つ心臓
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伝説的な自主映画としての『闇打つ心臓』。23年経てつくられた『闇打つ心臓Heart,beating in the dark』。闇打つ心臓とは何なのか?関係者や監督たちに聞いて回る、リレーインタビュー。

by yamiutsu
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武藤起一さんインタビュー
23年前、いったい彼らは何を考え『闇打つ心臓』に参加したのか。
今回は、『闇打つ心臓』(8mm版)でカメラを担当した武藤起一氏に話を聞いた。



武藤起一さんインタビュー_f0087322_12271281.jpg−まずは長崎監督との出会いから。武藤さんは当時早稲田大学のシネ研(シネマ研究会)にいらして、どうやって接点をもたれたんですか?

シネ研はその時8mm、日芸は16mmで自主映画を撮っていたわけだけど、長崎が日芸在学中に撮った『ユキがロックを棄てた夏』を見て、こいつはすごい才能だな、と思っていた。確か79年に、今度は8 mmで撮ろうってことでカメラマンを探していた。当時自分はカメラには定評があって(笑)、シネ研に話が来て、俺は是非やりたい、と。それが『映子、夜になれ』という作品になりました。
やっぱりその頃は、PFFが始まって“新しい映画の才能は自主映画から出てくるんだ”という時代の空気を感じていたしね。まあ映画の人間ってみんなでスクラム組んで、というよりはそれぞれが好きにやってたんだけど、ある程度ヨコのつながりはありましたね。

−『闇打つ心臓』は長崎さんがすでにプロデビューした後の作品ですよね。

長崎が『九月の冗談クラブバンド』を撮って事故に遭って、それが完成した後に(『闇打つ心臓』の企画が)出たんじゃないかな。文芸坐がお金を出すから8mmで撮らないか、っていう話で。(35mmの)本編とは全然違うんで、少人数でチョロっとやろうってことでまた声がかかって。その頃は僕も仕事をしてたんで、週末を縫って参加しました。

−撮影期間は正味どのくらい?

4〜5日だったんじゃないかなあ。ほとんど徹夜で、死ぬ思いでした。寒かったし。

−長崎さんとはこれが2本目だったということで、ある程度調子はつかめていたんですか。

1本目の時に大体分かりましたね。なんて人非人なんだって(笑)。
僕らは早稲田であくまでもサークルとして映画を撮っていて、プロになろうとしていたわけじゃない。ところが長崎は、8mmであっても徹底したやり方で、最初は「いつになったら昼飯が食えるんだ!?」「なぜここまでやんなきゃいけないのか」って思いながらカメラ回していました。結局「プロを目指す人はこうなんだ」という衝撃を受けたし、影響もされた。
その後、自分がシネ研で監督した時は、周りのやつらを相当酷使して恨まれたね(笑)。

−シネ研とは違う雰囲気の中で、監督と、周りのスタッフとの距離感はどうだったんですか。

『闇』のスタッフはほとんどが8mmの、というか僕がシネ研の後輩に声かけてかき集めてきた。助監督は、山本政志の助監督をやってた諏訪敦彦を長崎が呼んだと思います。諏訪もその後りっぱな監督になりましたねえ。彼が監督して作る映画はかなり不器用な感じだけど、助監督としてはよく動いてとても器用でした(笑)。
現場は、長崎はほとんど喋らないし、コワモテだし(笑)、どうしたって和気あいあいって感じにはならない。監督は、余計なことに神経を使わず、監督に徹する。そこが要するに「プロ」なんだなーと。

−『闇』に参加したことが、その後の人生に影響を与えたことってありますか。

さっきも言った通り、妥協を許さない、そういう映画作りの姿勢には影響を受けました。
だから自分に才能あるか分からないけど、自分もいちおう監督目指してやっていたので、とりあえずやれるところまでやろう、と思った。
だんだん、自分にどういう才能があるのかわかってきて、必ずしも監督じゃなくてもいいのかな、とは思い始めたけど。例えば、シネ研の同期に山川直人がいて、こいつにはかなわないな、って思いましたし。
監督っていうのは「人に評価される」部分がなければやっても意味がないだろう、と。
カメラはよく誉められたんで、カメラマンになればって言われたりもしたけど、そっちの道はピンとこなかったね。ああいう職人の世界は自分にはしっくりこないな、というか。かといって監督ではない、というところでぐちゃぐちゃやっていましたね。

−当時、完成した作品をみてどう思いましたか。

スタッフってどうしても自分のやったパートを見ちゃうから。映像はともかく、同録の音がひどかったね。8mmだと整音もできないし。ただ当時は、8mmでやるってことは、技術的に稚拙であっても、表現の部分で素晴らしければ観客が受け入れてくれる土壌はあったんです。
でも、この作品がこんなに一人歩きをするとはぜんぜん思っていなくて。
『闇打つ心臓』が海外で売れたって聞いたときは「そりゃよかった」って。でも、そんなに大層な映画だとか、後々まで残る、なんてことはまったく意識して作っていないですよね。

−監督もおそらく同じ気持ちだったんでしょうね。

まさに一人歩きしちゃったんだろうなあ。
参加していた自分が思うに、当時は、この映画をどこまで理解していたのか不明ですね。例えば、男と女が入れ替わったりとか、突然関係ないシーンがでてくる、ああいう演出上の意図はちゃんと理解していなかったはず。一応シナリオには書いてあったと思うけどね。
ホントわかんないですよ、どういう映画なのか。海外ではどういう部分が評価されたんだろう、とか(笑)。ほんま客観的に見れないわー。

武藤起一さんインタビュー_f0087322_1228423.jpg2006年の『闇打つ心臓』を見ていかがでしたか?

思ったより当時の映像使っているな〜と。自分の撮った映像がちょろちょろ出てくるし、イヤー恥ずかしいわ〜、というかやはり客観的には見れないですね。
ただ、23年前の映画をまったく踏まえていない今の観客にとって、この映画ってどう受け止められるかというと、自然に理解するのは難しいと思います。今みたいに、映画ってちゃんと分かり易くないといけないよ、という時代に、ある意味難解な映画、ですよね。こういうものを作っちゃった佐々木史朗プロデューサーの思い、というか決断には驚かされますね。
誰にでも受け入れられる映画では絶対にない。それは23年前のときもそうだったと思う。
史朗さんは、今の日本映画の状況も分かった上で、ひとつの冒険だと知りつつやられているんだろうなと思うと“すごいなー”と、自分も一プロデューサーとして思います。誰も彼もがわかってくれなくていい、という映画がこの時代に提示されている意味というかね。

−8mm版と今のと、見比べていかがですか。

ベースは変わっていないですね。
もちろん、年月を経て、若いカップルが登場したりとかいくつかの視点は加わってますが、やはり一人の作家の世界というのか、長崎俊一の非常に硬派な部分は変わっていないなあ。
長崎は観客におもねる作り方は絶対にできないと思うんです。そういう彼に合った映画作りって、なかなか今の時代難しいのかなあ、なんて。だから彼の持ち味を生かしてここまでストイックに硬派にやったっていう潔さを感じる。
現在の日本映画を見渡して、低予算で作るんなら、万人には受け入れられないかもしれないけれど“こんなの見たことない!”ってぐらい刺激の強いものがもっとあっていい。そういうことを目指した方が面白いなと思う。

−佐々木史朗プロデューサーの長年の思いと、監督の才能との、ガチンコ勝負が映画になった、という感じでしょうか。

確かに、映画は人の思いに引っ張られている。でもその思いは、分かる人にしかわからない。それでも、見て何かを感じる人がいてくれれば、それでいいんじゃないかなー。


自身も現在「ニューシネマワークショップ」を運営し、若手・新人作家の発掘を手がけている武藤氏の、“プロデューサーからの視点”が面白かった。

次回は『闇打つ心臓』で武藤氏の下で撮影助手をした、川崎欣也氏、国松達也氏のインタビュー!

by yamiutsu | 2006-03-15 12:30 | インタビュー